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自分の枠を広げるためには?『文化人類学入門』祖父江孝男 著

 

文化人類学入門 (中公新書 (560))

文化人類学入門 (中公新書 (560))

 

 

 

日本語の仮名づかいの中に「ジ・ヂ・ズ・ヅ」という四字がある。

 

ところが東京とか京都、大阪などを含めて、日本のなかのひじょうに多くの地域では、ジとヂの発音はまったくおなじで互いに区別せず、またズとヅも同様に区別して発音しないので、仮名は二つだけあればすんでしまう。したがって方言学者はこの地域のことを「二つ仮名弁地帯」とよんでいる。

 

こういう地域に住んでいる人は、日本のどこでもそうなのだろうとつい思いがちなのだが、実をいうと決してそうではないのであって、九州の鹿児島、宮崎、大分、佐賀、福岡の各県各地と高知県、和歌山県の南部、三重県の和歌山県寄りの南部と山梨県の一部といった地域では(ただし正確にいえば「ある年齢以上の人びとのあいだでは」ということになるが)、ジとヂ、ズとヅをそれぞれはっきり区別して発音するのである。

 

したがってこれらの地域では仮名は四つともちゃんとなければならないのであって、「四つ仮名弁地帯」と呼ばれている。

 

 

実をいえば室町時代末までは京都などを含む日本の中央部においても、はっきりと四つの音を発音しわけたのであり、それだからこそ四つの仮名づかいが正式なものとしての残ってきたわけだ。

 

しかし時代がたつにつれて、あまりまぎらわしい発音の別は日本の多くの地域でしだいに消失していった。

 

ところでこうした四つ仮名弁地帯とは対照的に、日本の中央部、すなわち二つ仮名弁地帯からさらに東へと進み、福島県北部よりも先の、いわゆる東北地帯に入るとどうなるだろう?

 

この地域のことばは奥羽方言、通称、東北弁と呼ばれるのだが、ここではジとヂ、ズとヅの区別がないばかりではなく、こんどはジ(ヂ)とズ(ヅ)の区別がなくなってしまい、四つある仮名も一つあれば足りるというので、この地域のことを「一つ仮名弁地帯」とよぶ。

 

 

以上の例で私が述べたかったのは、要するに同じ日本のなかでも、音声の「知覚」のしかたというものが、地域によってずいぶん異なっているという事実なのである。

 

ここで次に日本以外の地域について目を向けるとすると、たとえばまずフランス人のあいだでは、ハ行の音がないために、この音は全く発音できず、「ホテル」と発音しているつもりで、「オテル」となりがちだ。

 

カナダの奥地やアメリカのアリゾナ、ニュー・メキシコに住んでいるアメリカ・インディアンのあるグループは、アタバスカン(Athabascan)・インディアンとよばれているが、本によってはアタパスカン(Athapascan)とも書かれている。

 

実はどちらも正しいのであって、彼らの間ではbとpの音の区別はできないので、ちょうど、どちらにも聞こえる中間の音を出す。

 

こうした例をみると、なぜこんなにもはっきり違った音が識別できないのかと考えがちなのだが、しかし欧米人にとっては、はっきり異なっている[r]と[l]の音が、日本人にとってはなかなか識別できず、双方がおなじラ行音になっているのであって、欧米人からみればひじょうにおかしくみえるのとおなじことなのだ。

 

こうしてみると人間の知覚しうる音というものは、それぞれの文化ごとにはっきりと決まっていることがわかる。

 

 

〈今日のコンテンツ〉

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1. この本はどんな本か?

2. 自分の知覚は正しいのか

3. 自分以外の枠の存在を利用する

4. まとめ

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1. この本はどんな本か?

 

タイトルの通り、文化人類学に関する入門書です。といっても専門書ではなく一般向けに書かれている新書のため非常に読みやすい本です。

 

この学問分野が含む研究の範囲は非常に多岐に渡っており、この本では文化人類学における様々な研究分野についてそれぞれ1章ずつを使って概説されています。その内容としては、例えば、「文化の進化や文化の伝播」、「世界各地の文化における経済」や、「生活の技術」、「言語」。さらに「婚姻や家族・親族関係の違い」、「宗教と儀礼」、「民族性」、「文化の変容」などが取り上げられています。

 

世界各地の事例のみならず日本の事例も多数登場しますが、「こんなこと知らなかった!」と読んでいて目からウロコが落ちるような驚きを何回も味わうことができるでしょう。

 

今回は「言語」について書かれた章から引用しました。

 

 

2. 自分の知覚は正しいのか

 

カタカナで「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」があることは日本人なら誰でも小学校で習います。でもこれらの発音が異なっていることまで学んだ、異なる発音をすることができる、という人は一体どれくらいいるのでしょうか。

 

私は関西で育ちましたので、上記の引用の中にある「二つ仮名弁地帯」にいたことになります。文字としてはもちろん「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」の4つを教わっていますが、「ジ」と「ヂ」の発音、そして「ズ」と「ヅ」の発音は同じになります。

 

この本を読むまで「これらの言葉にそれぞれ別の発音が存在する」ということを知らずに生きてきたのでとても驚きました。

 

ただ、このことには本文中にも書かれている通り、「地域差」、および「年代差」が存在しているようです。

 

ですから別の地域、例えば「四つ仮名弁地帯」に暮らしていて、これらの発音を明確に使い分ける人達からしてみれば、私のような「二つ仮名弁地帯」の人間の発音にはきっと違和感を感じられることでしょう。

 

「えっ!『ズ』と『ヅ』が正しく発音できてないよ」

 

と指摘を受けるかもしれません。

 

また、発音の数が増える、ということにも衝撃を受けましたが、逆に発音の数が減る場合もある、ということにもびっくりしました。「一つ仮名弁地帯」と呼ばれる地域では、「ズ」も「ヅ」も「ジ」も「ヂ」もみんな同じ発音になるのだそうです。

 

 

今回、「二つ仮名弁地帯」で育った私が「四つ仮名弁地帯」や「一つ仮名弁地帯」に対して感じたような驚きは、それらの地帯の人から、私のような「二つ仮名弁地帯」の人間を見た場合にも、おそらくは同様な驚きを持って受け止められるのではないかと思います。

 

 

今回ご紹介した事例からお分かり頂けるかと思いますが、「自分」や「自分の普段所属している環境」が私たちの「当たり前」や「常識」を作り出しています。

 

そして、私たちは自分が持っている「当たり前のものさし」では測れない何かに遭遇した時に「驚き」を感じます。

 

ここまでは、おそらく誰にでも起こりうることだと思います。

 

 

3. 自分以外の枠の存在を利用する

 

自分にとっての「当たり前のものさし」では測れない何かと出会って衝撃を受けたとして、問題はこの後です。

 

この時、私たちが取ることのできる態度は大きく分けて2種類に分類できると思います。

 

一つ目は、「信じられない」「有り得ない」「馬鹿げている」と「自分のものさし」で測れない出来事や現象を受け入れることを「拒絶」して、「切り捨ててしまう」ことを選択する、という態度です。

 

そしてもう一つは「そんなものがあるのか」「そういう考え方があるのか」と、善悪や良否の判断を一端は保留して、それを「とりあえず、ただ事実として受け止めてみる」という態度です。事実に対する意味付け、解釈は後から改めて行おうという考え方です。

 

前者の場合は、自分の価値判断・意思決定の基準は「絶対的」なものです。考えに合わないものは受け入れない、ということですからどうしても視野は狭くなりがちです。ただ、迷いがない分、意思決定や行動のスピードは速くなるかもしれません。

 

一方、後者の場合は、自分の価値判断・意思決定の基準は「相対的」なものとなります。「自分の常識は柔軟に変更可能なもの」という立場に立つことになりますから、時と場合によって、ものさしの長さを伸ばしたり、縮めたりということが可能になります。当然、視野は広く、多面的なものになるでしょう。

 

 現状、自分にとって「到底受け入れられない」「意味が分からない」考え方だとしても、ひとまず「そういう考え方もあるのだ」と受け止めてみる。

 

「受け止める」ということは、必ずしも「納得する」ということを意味していません。ただ「そういう考え方やモノの見方があると知っておく」ということです。

 

これができるようになると何が良いのでしょうか。

 

それは、「自分の中で参照できるデータベースの事例の数が増える」ということです。例えば自分が出会った「信じられない考え方や行動」がもし、自分が尊敬している人の考え方だった場合はどうでしょう。

 

今の自分に理解できない考え方だったとしたら、「それに近づけるように努力する」、「無意識レベルまでその人と同じ考え方ができるようにチューニングしていく」という方針を持つことで、その尊敬する人に少しづつ近づいていくことができるでしょう。

 

そして、逆の場合、自分が苦手とする人の場合は、その「信じられない考え方や行動」を自分の「反面教師データベース」に加えておくことで自分の成長の糧としていくことができます。「この方向に進んではいけない」という生きた見本になってくれている、という意味で、その人は自分にとって非常に有難い先生だと見なすこともできるでしょう。

 

また、尊敬できる人の場合も、あるいは反対の人の場合も含めて、多様な人びとに出会う回数が増えて、データベースのデータが蓄積されてくると、ある程度対人関係における「容量」が大きくなってきます。

 

極論すると、私たち自身の持つ「当たり前や常識のものさし」から大きく外れた考え方や現象に多く触れて、それらをストックしていくほど、私たちのものさしが測ることのできる長さは長くなり、測ることのできるモノや出来事の数も増えていく、ということになります。

 

 

 そして、知れば知るほどに、その考え方を知る前の自分の「枠」が如何に小さなものだったのかを思い知ることになるのです。謙虚になっていくのです。

 

 

「当たり前のものさし」で全てを測ろうとすることは、自分の「枠」や「世界」を広げていくことを拒絶することと同じです。そこに成長はありません。

 

ですから、私たちは絶えず、「自分の考え方」や「判断」にも疑いの目を持ち続けなければならないのだと思います。もちろん、最終的な意思決定を行うのは自分自身ですが、「もっと他の見方や考え方はできないのか」という視点は常に持っていたいところです。

 

今回ご紹介した文化人類学のような学問は、世界の文化やそれを形作る人間の考え方の多様性をまざまざと教えてくれます。自分の知っている「常識の枠」がどれくらいちっぽけなものかを分かりやすく示してくれます。

 

「受け入れる」かどうかは別にして、まずは自分の持つ「ものさし」とは「別のものさし」が、どうやら世界には無数に存在しているらしいと「知る」ことは、きっと私たちの「今の枠」にヒビを入れるきっかけとなってくれることでしょう。

 

 

4. まとめ

 

・「ズ」、「ヅ」、「ヂ」、「ジ」の発音は地域と年代によって

 異なっている

 

・自分の「当たり前のものさし」を伸ばすには、「信じられない」考え方に

 出会っても、「ひとまず受け止めてみる」ことが大切

 

・私たち自身の持つ「当たり前や常識のものさし」から大きく外れた

 考え方や現象に多く触れて、それらをストックしていくほど、

 測ることのできるモノや出来事の数も増えていく

 

 

〈今日の読書を行動に変えるための
 個人的チャレンジシート〉
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1.この本を読んだ目的、ねらい

 

・文化人類学の概要について学ぶ


2. 読んでよかったこと、感じたこと

 

・多数の「未知との遭遇」により自分の

 「当たり前のものさし」が伸びた

 


3. この本を読んで、自分は今から何をするか

 

・文化人類学についてもう少し入門書を読んでみる

 

・今の自分が「違和感」を感じる考え方や場にぶつかりにいく


4. 3か月後には何をするか、どうなっていたいか

 

・自分のものさしの長さが3倍長くなり、

 3倍の数のものを測ることができるようになっている

 

・違和感や居心地の悪さ、反面教師との出会いを

 全てチャンスと思い、嬉々として飛び込んでいける

 ようになっている

 

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文化人類学入門 (中公新書 (560))

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